真っ暗だった。
実の所は部屋の四隅に小さな明かりが灯ってはいたが、目を布で隠された男にとってその光は無いに等しい。
暗い室内に相応しく、辺りはシンと静まりかえっていた。
聴こえるのは押し殺した息遣いと、時折ほんの微かに、男が身体を動かした時の衣擦れの音だけである。

周囲の壁、床、天井一面には、彼らが讃える神々へ捧げる絵や文が鄭重に彫られているのが薄明りにボンヤリと浮かび上がっていた。神殿や、神官が持つ杖等に描かれているそれである。ただ描かれているのではなく何かを意図したようで。証拠に、隙間をなくすように細々としたそれらの文様は、部屋の中心にあるものに向かって、円を描くように配置されているのである。そして天井からはベールのような布が中心にあるものを隠す様に何重にも垂れ下がっており、室内には微かに、御香が漂っていた。
ひと目で、普通に使用する為の部屋ではないことが解かる。
その異様な室内に男は一人、中心にある寝台に腰掛けていた。

(…冷えるな)

地下のせいか、それともこの厳かな空気のせいか。感じる冷気を建前に、緊張を誤魔化そうと手をすり合わせ、ふぅ、と小さくため息をつく。多少癖のある長めの髪が首元を覆っているのがありがたかった。
視覚は封じられているが、手足にはなにもされていない。
いつでも目を覆っている布を取り除こうと思えばできるし、出て行こうと思えば容易い。
そうしないのは、ここにいるのがまぎれもなく男自らの意思であることの表明であった。
人影はそのことを確認するかのごとく、もう一度自らの手を合わせる。
幾重に刺繍が施された白を貴重とする衣服が、男の元々色素が薄い肌を際立たせ、闇の中に薄らと浮かび上がらせる。

その時、チリンと、鈴の音が耳に届いた。
所在無さげに寝台の端に座っていた男は、ビクリとその身を竦ませる。
部屋を覆っていた静寂の中、それは実際の音よりも大きく響いたように感じた。
しかし直ぐに、動揺したことを気取られないように立ち上がり、音のした方向に向き直った。
注意深く人の気配を探ると、僅かに、それも大分近い所に感じて驚く。これでも軍に所属し、訓練も受けている自分が、接近に気づかなかったとは。更に追加すれば、相手がこんな僅かな距離で微かな気配しか発していないという事にもだ。

そこまで考えが巡って、やめる。そういう些細なことを考えてしまうのは自分の悪い癖だ。
戦中ならばそれも長所になりえるが、今最も重要なのは、すべき事をやり遂げることである。
男は胸の前で手を組むと、気配に向かって頭を垂れた。

「ご足労感謝いたします神官様。一族直子、第二子、ヴァーユと申します。此度お役目に就任する事に相成りました。」

心臓の鼓動は早く、嫌な動悸が止められない。そんな状態で思っていたより平常な言葉を発することが出来た事に内心ホッとした。動揺を気取られないようにというのは、自分の小さなプライドだった。
これから起こることは、なんとも無いことであると。相手に、自分に、知らしめる為の。

「御国の為、尽力させていただく所存でございます。何卒宜しくお願い申し上げま   ッ」

唐突だった。
言い終わるが早いか。リンと、視界を奪われたヴァーユの為に、足首に括られているであろう彼の居場所を知らしめる役目の鈴の音が聞こえた。と思うと、些か乱暴に顎に手を添えられ、身体ごと上を向かされた。
暗闇の中に突然感じた他人の感触に、ヴァーユは鈴の音が聞こえたとき以上に身を震わせてしまった。
先ほどから過剰に反応してしまうのは、極度の緊張からか、視覚がない身を他の感覚が代理しようと神経が敏感になっているからか。
だがその答えを考える時間はなかった

「…ん……?」

唇に、なにかが触れていた。
ヴァーユの耳に、ちゅっと啄ばむような音が聞こえる。
唇が吸われた感触、密着する違和感。しかし急なことに思考が追いつかない
一因に、この優しく触れてくるものに、反応が遅れてしまったこともある。
そしてその遅れが口内に柔らかいものが侵入してくるのを許してしまった。

「ふ……っ…ん、ぅ…」

なにかが、口の中に入ってくる。それだけではない。口内で固まってしまっていたヴァーユの舌に触れ、ぬるりと舐められた瞬間、強く吸われる。
途端。ゾクリと、背中が大きく戦慄いた。
反射的に、逃れようと自分の顎を捉えている手を掴むが、それまで。両の手で掴んでいるのに腕はびくともしなかった。
その間にも、逃げをうつ舌を難なく追い詰められ、捕まえられ、絡めとられる異様な感覚。舌を噛まれた刺激で、無意識にだが拒否反応で相手の手を掴む力が強くなる。すると仕返しとばかりに、舌を開放した熱いものは歯列を辿り、唇の内部をねっとりと舐め始めたから堪らない。

「…んんっ!やめ      ッ」

あまりの事に思わず出てしまった制止の言葉を、ヴァーユは必死で押さえ込んだ。
自分は、その為にここにいるのだから。
だが

(…なん…だ、これ…は……)

濡れた舌の動きは次第に荒々しいものになっていく。内頬を舐められ、舌裏をなぞられるとゾワリと鳥肌がたった。唾液を絡めるようにされ、深いところを暴かれるように強く吸い上げられて大きく身体がはねた。進入してくるものの熱につられて、自らの奥も熱を帯びてくる、ような。
そんな自分の反応に、大きく動揺した。
キスの経験が無いわけではない。仲がいい自分の家では、特に姉とは、親愛をこめたキス等日常の事であった。ただそれは主に頬や額に啄ばむようなもので。
こんな、こんな深いものは…、ヴァーユは知らなかった。
それを唐突に、強烈に味合わされて、動揺に恐怖が混じる。思わず後ろに身を引くと、自由だったもう片方の手だろう、強く後頭部を押さえられて僅かな抵抗はあっけなく封じられた。
息苦しさに身を捩ることすら許してもらえず、くらりと目眩がした。

これでもう、逃げられない。
ヴァーユは心身にそう理解させると、ゆっくりと相手の腕を掴んでいた手を下ろし、強く握り締めた。
身体の熱さと裏腹に、頭の奥が冷え切っていく

(…なにも、考えるな…。)

思考を停止し、全て受け入れればいい
わずか一日。過ぎ去ってしまえば一瞬のことである。

角度を変えて、再び深く深く口付けられる己をどこか遠く感じながら、ヴァーユは布で覆われた目を、閉じた。

.



















短夜の儀式














































「納得がいかないわ。説明を求めます。」

使者に向かい開口一番にそう言い放った姉の傍らで、ヴァーユは肩をすくめた。
常日頃は穏やかな表情を湛えている姉が、今は憤りを隠そうともしていない。
ルシュ国一の美女と誉れ高いほどの美貌がその威圧感を増長させ、発せられる氷のような空気に若い官はすっかり怯えきってしまっていた。
姉がこの様に感情を露わにすることは、普段は決してないことである。褒める以外の心の内は気を許した者にしか吐露しないことは、度々愚痴に付き合う弟のヴァーユはよく知っている。

「こ、此度の戦で、30年前の「儀式」において蓄えられたエネルギーが尽きてしまいました。議会では至急、次の戦が始まる前に補充すべきであるとの、判断がされ…。」
「左様ですか…。今の全軍の状態と、アペデマス様が率いる軍隊に、不足な点が或るという事なのでしょう…。軍師として、アペデマス軍の一員として自身の未熟な様、誠に不甲斐無い限り。御恥ずかしい事にございます」
「い、い、いえ!決して、決してその様な事はありえませんメロエ様!アペデマス軍の精強な様は誰の目にも明らか!先の戦、いえ今戦全ては御方々が齎した勝利である事は、国王様をはじめとする全国民が…」
「あらそうですか。ならば軍備が充実しつつある今、そのような儀式に私は必要性を見出すことができません。如何?」

必死で伝えるべきことを伝えようとしている官の努力を、小首を傾げながら容赦なくばっさり切る。
姉が相当怒っていることの証拠である。

「姉さん、彼は議会の決定を伝えにきただけなのですから。」

ヴァーユはこの貧乏くじを引かされた官を流石に憐れに感じたことと、今の姉の様子が人の口づてに広まる事を危惧し、表面的には穏やかに止めに入った。

「万が一、ということもあります。戦おいて万全ということはありえません。備えあって、ありすぎることもありませんよ、姉さん。」

諭すように、落ち着くようにとの物言いに。メロエは何かを言いた気に顔を上げたが、小さく溜息をつくに留まり、険しい表情は崩さずとも一歩引いた。その間にヴァーユは、ご苦労様でした。後で参りますと官に伝え、退出を促す。
すると官は飛び上がるように立ち上がり、ホッとしたような顔で一礼をして急いで出て行った。

「教育がなっていないわね。根腐れは葉の一枚一枚から伝わるものよ。」
「これ以上仕事を増やしたら倒れますよ。」

必要ないとは思いつつ一応釘をさしてみると、メロエは不服そうに扉を睨らんだだけで口を閉ざした。姉はそう言うが、怯えつつそれでも扉を静かに閉じたことは及第点だろう。精一杯の努力が伺える。
ヴァーユが苦笑できるほど、姉弟二人きりになって幾分張り詰めた空気が緩んだ。しかし姉の機嫌が直る筈もなく。
メロエはこめかみを押さえながら、ヴァーユに向き直った。

「ヴァーユ。貴方、儀式を行うという事がどういうことか、解かっているの…?」
「はい、勿論。その上で引き受けました。」

目を正面から見据えて、押し殺した声で問う姉に、険しい顔にも怯むことなくヴァーユは緩やかな笑みでもって答えを返すと。メロエは益々険を深くした。
そもそも、引き受けるもなにも。議会が決定したこととは宰相が判断を下したことであり、つまり国王の意思である。最初から選択権などこちらに与えられてはいないのだが。

「儀式」とは歴代、自分の一族に課せられている重大な責務である。
ヴァーユは昨日、議会からの正式な使者から「儀式」のお役目に選ばれたことを告げられ、返す言葉で承諾の意を告げた。
断るなど、どんな不名誉が自分の家族に負わされるか。ヴァーユにとってそれだけが危惧するべきことであった。自分の身など後でいいと、真っ直ぐにそう思っている。
ただし、姉は怒るだろうし、止めるだろう。根本的に、儀式自体を廃止しようと奏上しかねない。先戦の始末、そしてこれからの戦の作戦会議に掛かりっきりになるだろう姉に、これ以上面倒はかけられない。穏便にすませるよう、どうやって事の次第を伝えたものかと頭を悩ませながら姉の執務室に入った直後、議会からの使者が来たのである。間の悪いことこの上なかった。



ヴァーユの一族は、一世代に2〜3人、風を操る力を持つ者が誕生する特異な力を秘めた家系であった。他の特異な力である予知能力等とは違って完全に遺伝的なものであり、王家から格別の待遇を受けている。
その中でもごく稀に、格段に強い力を持つ者が誕生することがあった。その者の力は単に風を操るだけではなく、自らの力で多量の生命エネルギーを作り出すことができた。普通の風能力者の力は攻撃に特化したものであるが、それに尚且つ生命エネルギーを使って他者の傷の回復という、癒しの力を持ったのである。
肉体は、そのものがエネルギーの源泉となった。
多量の放出は特異能力者に負担がかかるが、いくらでも生み出せる力。

そこで、メロエ曰く円頭人によって急激に発達した技術力に慢心した宮廷付きの技術者諸々は、この力を何かに、主に軍事に応用できないかと考えた。
当時、技術面は特化したものの。それを他に取られないようにする為の守備力、軍事面は脆かったのだ。それ故時の国王も積極的に協力し、円頭人の技術力を持って、彼らの放つエネルギーを水晶のような結晶に集めることに成功したのである。


「でも、次にいつ強力な力を持つ者が現れるか解からないから、数十年ほど使用できるまで搾取するのよ。…身体の負担が大きすぎるわ」
「大丈夫ですよ、戦が始まるまでに療養すれば問題ない筈です。」

彼らがこの、力を収集する行為を「儀式」と名を付けたのは。儀式とは神事、祭事をあらわす言葉であって、単純だが重い響きを含む事。即ち、身を削って国の為に尽力する一族に対する敬意を評した証だという。

ただし、エネルギーの応用という面ではかなりの失敗続きだったようで、辛うじての遺産の一つが「ゾロアの塔」である。だがこれは、生物を永久保存する液体という癒しの力の延長上なものであって軍事面ではない。他の発明品も多々でき、エネルギー自体は大いに活用しているものの。攻撃方面に応用することは無理かと思われていた。
だが。つい先日の事、エジプトとの戦により重症を負ったアグニの手術において使用した結果、ただの人であったアグニが生命エネルギーを炎に近いパワーに変化させ、操ることが出来るようになったという。
長年の悲願がついに達成したのである。
ところが。

「アグニに使用した分で、以前の儀式の時のエネルギーがなくなってしまったのですから。再び蓄えることは当然の事ですし。」
 
現在。一市民から取り立てられ、軍神とまで称されるアペデマスという将軍と、その直属の配下5戦士のもと鍛えられた軍隊。なかでも選りすぐりの精鋭で結成されたアペデマス軍団は、大陸一と称えられるほどにまでに育て上げられ、強固なものになっていた。つまり軍事力に憂いはなくなったのであり、同時に軍事補強という建前は通用しなくなった。という事にもなるが。

「利用する場所は沢山あります。今までの様に」
「…ええ。そう返答頂いたわ。」

納得いっていないようなメロエの答えに、ヴァーユは姉がもう既に儀式の件に関して奏上し終わっていたことを察し、小さく感嘆の息を漏らした。
考えれば、姉はヴァーユより上の地位であると同時に一族直系の長子で、このままいけば時期頭首である。自分より遥かに情報を知る得る立場なのだ。知ってて当然である。
それより、アグニの手術がほんの数日前、ヴァーユに話が来たのが昨日。その間に奏上文を書き上げ目通りし、返答まで貰っているというその行動の速さに舌を巻く思いがする。
予めエネルギーの減少量などの情報が入っていたとしても、だ。


      ヴァーユ。」
「…っ」

それまで伺うように見ていたメロエが、そっと静かにヴァーユの頬に手を伸ばしてきた。
優しいような、哀しいような、或いはその両方のような声で名前を呼ばれ、一瞬、胸が詰まる。

「嫌ならば拒否をして良いのよ。どんな意思でも、お父様もお母様も味方になってくれる。後は、姉さんに任せなさい。」

まるで母親が庇護の子供に言い聞かすみたいだ。
声は、哀願に近い切ない響きを含んでいるように聴こえる。

(なんだか、昔を思い出すなぁ。)

子供の頃はずっと姉の後ろに隠れていた。
一族の立場や自身の力に期待する人々、周りのもの全てが、一人の子供の身で受け入れるのには強大すぎたのだ。そんなヴァーユをメロエはずっと後ろに庇っていた。
しかし、自分の事を処理できるようになった今ではお互いに一歩引いた距離を保つようになり、特に軍内でのメロエは厳格な空気を身に纏い、ヴァーユも自然とそれに従った。
基本的に、姉は合理的な判断を下す人である。
備えあって憂いなしとはメロエの口癖であって、もしも「儀式」に選ばれたのがメロエ自身ならば、すんなり受け入れていたであろう。「利用する所がある」と見做して。
こうまで「儀式」に不平を漏らすのは、自分以外だったから。

今の姉は子供の頃の姉だと思う。いや、根本のところは変わっていないという事かもしれない。
純粋な嬉しさと懐かしい面影に、知らずヴァーユの顔は綻んでいた。
ただ、ヴァーユはもう子供ではなく、選ばれたのもメロエじゃない。それだけが或る。
心の底から思う。自分でよかったと。

「姉さん。私はお役目に選任された事、光栄に思ってますよ。」


もう決めたことだと。それは例え、敬愛する姉であっても異議されることを厭う目であって。
こうなれば何を言っても無駄であると、姉弟であるメロエには痛いほど伝わっただろう。触れてきたときと同じようにそっと傍を離れる。溜息を吐いて、曇った表情で頭を振った。
目線を窓に向けた姉に小さく胸が痛んだが、心は静かだった。

「では、上官に暇乞いをしに参りますので、是にて失礼致します。」
「わかりました。退室を許します。…大任、よく勤めますよう」

義務的なやりとりをした後、メロエの横顔に一礼をしてヴァーユは部屋を後にした。
辛そうに歯を食いしばる姉の姿は、見なかったことにした。
















20090521
古都